2013年1月20日日曜日

忘れられない試験問題


「インストラクショナル・デザイン〜教師のためのルールブック」という本を読みました。先生を想定読者とし、教え方を教えるこの本の中にはこんな一節があります。

私は学校の先生たちに、期末テストの問題はテストの前日ではなく、学期が始まってすぐにつくることをお奨めしている。期末テストの問題をつくってみれば、自分が何をどれだけ教えなければならないかがはっきりするからだ。

「何をどれだけ教えなければならないか」というのは「学生に何を学んで欲しいか」という先生の狙いでもあるはず。ということは試験問題には先生の思いが込められている、というのがこの一節を読んで僕が理解したところです。

ここで「先生の思いが込められた試験問題の具体例」を過去の経験から探してみると、ハイ、大学3年時に受講した「国際政治論」の記憶が蘇って来ました。

国際政治論の担当教官は鈴木佑司先生といい、学年末のレポート試験ではこんな問題が出されました。

問題:世界平和の条件を述べよ

 

鈴木佑司氏

僕がこれを覚えている理由は「世界平和の条件」は講義の中で明示的に取り上げられなかったにも関わらず試験問題として出題されたからです。

講義の中で説明されたのは日米・米ソ・米中の二国間関係など個別具体的なケースばかりで、鈴木先生が「世界平和のためには、コレとアレとソレが必要で…」などと説明してくれことは一度もなかったわけです。

大学は講義を丸暗記すれば済む場ではない。

こう思い知らされたという点で、この試験問題は長く僕の記憶に残っていました。

そして今、試験問題には先生の思いが込められているという前提に立ってみると、鈴木先生は、世界平和実現の方法を学生に真剣に考えさせたかったのだろうし、それが鈴木先生が講義を行なっている狙いだったのだと思うわけです。

本人に確認したわけではないので、本当の出題意図はわかりませんが、少なくとも僕の頭の中では今、鈴木先生の試験問題は世界平和への思いが詰まった良問ということになっています。

こんな問題が出題されるのなら、試験というものを毛嫌いすべきではないですね。

2013年1月13日日曜日

趣味みたいな勉強

ヒロシは「趣味みたいなこと」を勉強していれば済むのでイイなあ〜。

シェフィールドにて。1994年頃

僕は1992-1994年、イギリスのシェフィールド大学へ留学しました。冒頭の言葉は、留学先で知り合ったシンガポール人から言われたものです(もちろん英語で)。

僕の留学は、日本で通っていた大学からの派遣留学であり、学位取得を目的としたものではありませんでした。また、留学先での専攻は「政治学と社会学」で、彼の目から見るとそれらは実益に直結しない「趣味みたいなこと」だったようです。

(実際は、政治学と社会学をネタに「英語そのもの」を勉強していたようなものなので、趣味の勉強さえまともに出来ていかったのですけど…)

シェフィールド大にはシンガポールから多くの留学生が来ていました。彼らが専攻していた科目は、法学、経営学、各種工学という「社会ですぐに使える学問」で、いわゆる社会・人文系の学部を専攻している学生は皆無でした。

あれから約20年の月日が流れた今日。
シンガポールはアジアの中心になり、日本は世界の中での存在感を薄めています。
あのシンガポール人の目には今の日本はどう映っているのでしょう?

「趣味みたいなこと」を勉強していた男の国だから、競争力低下も当然と思われているか。あるいは、日本のことなど全く気にしていないか…。

僕は、それを大学で学ぶべきかどうかは別として、実益に直結しない「趣味みたいなこと」にエネルギーを費やすものアリだと思っています。

スティーブ・ジョブズはタイポグラフィを勉強し、それが後に、Macintoshへのプロポーショナルフォント搭載につながったのは有名な話です。

ただ「趣味みたいなこと」の勉強を一般論で正当化しても、僕自身が世に役立つ成果を出さないと空虚な寝言にしかならないは事実なので、はい、もっと精進します。

「第二の野球」に出会ったら

もし、この世界に野球がなかったら。 その世界に生まれた人は野球というゲームを考えつくだろうか? No、なんじゃないかな。 ボクシングとかサッカーは、それがない世界に生まれても、考えつく可能性は高いと思う。「殴り合う」とか「ボールを蹴ってゴールに入れる」というのは直感的だから。けど...